横浜地方裁判所 昭和48年(わ)3412号 判決 1974年8月07日
主文
被告人を禁錮二年に処する。
未決勾留日数中、一七〇日を右本刑に算入する。
理由
(本件犯行に至るまでの経緯)
被告人は、父、甲野太郎、母、同花子(昭和二年二月一日生)の長男として出生し、○○商業高校に進学したが、同校三年生のころから「ボンド」「コンタクト」等のいわゆる「シンナー」(酢酸エチル、トルエン、メタノールを主体とする溶媒材接着剤)遊びの味を覚え、学友らと集団で吸引し、これに耽溺したが、その有害性に気付き、約一か月くらいで中止したものの、高校卒業後、東京都内や横浜市内の就職先で間けつ的に「シンナー」を吸引し、次いで、昭和四六年春、○○大学経済学部二部(夜間)の学生となって神奈川県横浜市○区○○×丁目×××番地所在の自宅から通学するようになってからは、自宅で「シンナー」をしばしば単独吸引するようになり、「シンナー」の酩酊中毒による発揚興奮状態を呈し、昭和四七年六月中旬ころ、「シンナー」を吸引して幻覚に襲われ、「これでよいのか」「これでよいのか」などと喚きながら手拳で畳を叩き回ったりなどし、昭和四八年四月初旬ころ、「シンナー」を吸引するうち、酩酊中毒による前記状態を露呈したうえ、著るしい意識低下をきたして夢幻様状態に陥り、自宅二階から発作的に階下に飛び降りたあげく、幻覚妄想に支配されて、何らの理由もないのに、近隣の主婦らにいきなり暴力沙汰に及んだのち、絶望感から自殺念慮に駆られて左手首を自傷したこともあったが、その都度、両親から止められて叱責され、「シンナー」遊びは今後絶対に止める、などと泣いて誓っていた。このようにして、いわゆる「シンナー」吸引による酩酊中毒の症候が次第に強く被告人に発現するようになったが、その症候は、発揚性興奮状態から夢幻様状態(意識障害)にまで発展し、その結果、夢幻様状態における幻覚妄想に支配されて異常突飛な暴力的行動に出て、しかも、その抑止作用が全くきかなくなるという有様であって、被告人もこれを十分に認識自覚するようになっていた。
(罪となるべき事実)
およそ、「シンナー」の吸引は、その薬物の劇毒性から人の心神に有害で危険であること、多言を要しないから、何人もこれを吸引してはならず、とりわけ、被告人は、前述のとおり、これを長時間吸引した場合には、たちまち、酩酊のうえ中毒の状態に陥り、幻覚妄想に支配されて異常突飛な暴力的行動を振舞うようになり、しかも、ますます顕著に発現する傾向が強くなっていたことを認識自覚していたので、「シンナー」を吸引するときは、どの様な重大な結果をひき起こすかも計り知れないことが当然予見されたから、「シンナー」の吸引は、厳重にこれをやめるべき注意義務があるものと言えるところ、被告人は、昭和四八年一一月一六日午後二時ころ、肩書地自宅において、虚無感と虚脱感に襲われたすえ、「シンナー」を吸引して気分を紛らそうと考え、自宅物置から使用残りの三共株式会社製殺虫剤五パーセント「ダイアノジン」乳剤瓶入りを探がし出し、その臭いをかいでみたところ、「シンナー」と同じ臭いがしたので、これを「シンナー」と思い込み、すぐ、自宅二階六畳の間の自室において、右注意義務を怠り、ただ、まん然と有合せたビニール袋に右の瓶中の液体を注入して、約三時間、これを吸引した重大な過失により、右の五パーセント「ダイアノジン」の瓶中に混入していたと推認される「シンナー」及び「ダイアノジン」の薬剤の作用により、たちまち、酩酊のうえ中毒して夢幻様状態に陥ったが、同日午後五時三〇分ころ、おりから帰宅した実母、花子を覚知できず、「この女を殺さなければ人類は滅亡してしまう」という世界没落観的妄想に支配されて同女に襲いかかり、逃げ回る同女に対し、すぐ、自宅内において、その全身を手拳で乱打したり、突き飛ばしたり、あるいは、踏んだり、蹴ったりする等の暴行を加え、よって、同女をして、同日午後七時五分ころ、同区○○×丁目×番××号乙山病院内において、前記暴行に基因する内臓破裂による失血のため死亡するに致らしめたものである。
(証拠の標目)≪省略≫
(弁護人の主張に対する判断)
一 罪刑法定主義に反する、との主張について。
弁護人は、被告人は、明らかに心神喪失中において、実母を死に致したものであるから、改正刑法草案一七条のような明白な規定のない限り、「原因において自由なる行為」の理論に基き、被告人に刑事責任を負わせるのは、罪刑法定主義に反するので、被告人は無罪であると、主張するので検討すると、なるほど、弁護人主張のとおり、被告人は「シンナー」の酩酊中毒による心神喪失の状態において、実母を死亡させるに至ったものであることは、判示認定のとおり、明らかであるが、被告人に対し、心神喪失中の行為をとらえて、殺人もしくは傷害致死罪の刑事責任を科し得ないことは、言うを待たないところであっても、心神喪失を招来するに至った原因において、注意義務違反の事実ありと認め、本件のように重過失致死罪の刑事責任を負わすことは、いささかも罪刑法定主義に反するものではないから、弁護人の右主張は採用しない。
二 本件は、重過失致死ではなく、単なる過失致死に該当する事案である、との主張について。
弁護人は、「原因において自由なる行為」の理論により、重大なる過失ありと認定された幾多の事例を調べると、主として飲酒による病的酩酊の場合であって、しかも、過去に何回となく刑事処分を受けている場合に限られているが、本件にあっては、被告人はこれまで同種類似の傷害暴行等により処罰されたこともなく、また、本件犯行以前の「シンナー」吸引による暴力事件と目せられる行為も僅か二回に過ぎないから、本件の場合には、重大なる過失ありとは言い難く、単なる過失致死罪が成立するに過ぎない、と主張する。
然しながら、宗教上あるいは道徳上の理由から、もしくは、健康上あるいは嗜好上の理由から禁酒する場合は別として、およそ飲酒そのものは、何人にも許されている社会の習俗であるから、たとえ、飲酒により酩酊し、あるいは病的酩酊に陥ることが予測される場合であっても、過失の程度の比較考量にさいして、飲酒による場合と「シンナー」吸引による場合と軽軽しく同一に論断することはできないと解すべきである。すなわち、酒類は、飲用目的として公然販売されているのに反し、「シンナー」は、溶媒材、接着剤としての使用目的でしか販売されていず、しかも、「シンナー」は、毒物劇物取締法にも規定されている酢酸エチル、トルエン、メタノールを含有する毒性及び危険性の極めて高い薬物であって、青少年の間で「シンナー」遊びが流行していることは公知の事実であるとしても、通常何人もこれを吸引していないし、またこれを吸引するというような行為は直ちにこれを禁ずべきである。しかも、本件においては、前示各証拠によれば、被告人は「シンナー」単独吸引の悪癖を有し、その初期の段階においては、酩酊中毒による危険性がさほど強くはなかったが、その回を重ねるごとに発展的段階的に激しくなる傾向が顕著であったことが認められ、「シンナー」を吸引してはならないという注意義務は、ほかの誰よりも被告人には強く要請されていたと言えるから、被告人の右注意義務違反は、重大なる過失と認めざるを得ないので、弁護人の右の主張は採用できない。
(法令の適用)
被告人の判示所為は、刑法二一一条後段、罰金等臨時措置法三条一項に該当するので、所定刑中、禁錮刑を選択し、その所定刑期範囲内において、被告人を禁錮二年に処することとし、なお、刑法二一条に則り、未決勾留日数中、一七〇日を右本刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 加藤廣國)